6j.jpg




md.jpg




8.フェデリーコ2世の無血十字軍

破門されたフェデリーコ2世は、各国に弁明とローマ教皇の横暴を訴える手紙を出し、健康が回復し用意が出来次第十字軍遠征に出発する旨を通知しました。

そして、1228年9月、ようやくイェルサレムに出発しましたが、一年前のときのように大軍を率いての遠征ではありませんでした。

その理由は、エジプト十字軍以降、十字軍に消極的な皇帝の存在に興味を示していたアイユーブ朝カリフのアル・カーミルがフェデリーコ2世に使者を送ったことから、両者の間に交流が生まれていたことと、アイユーブ朝にも内紛があったために、アル・カーミルが同盟を申し入れてきていたので、交渉による聖地奪回を成功させられる可能性が高かったからです。

『フェデリーコ2世とアル=カーミル』(ジョヴァンニ・ヴィッラーニの『年代記』より)

ですが、フェデリーコ2世がイェルサレム王国の内裏首都であったアッコンに到着したとき、アイユーブ朝の内紛はすでに収まってしまっていました。アル=カーミルとしては、フェデリーコ2世との同盟を組む必要性がなくなってしまっていたのですが、粘り強い交渉の末に、1229年2月11日に、10年という期限つきではありますが、聖地イェルサレムと数都市のの支配権を返還するという協定を結ぶことに成功しました。この協約はヤッファで結ばれたので、「ヤッファ協定」と呼ばれています。

そして、フェデリーコ2世は3月17日にイェルサレムに入城し、翌日、聖墳墓教会においてイェルサレム王の戴冠式を取り行いました。

本来であれば、この聖地奪還のニュースに全ヨーロッパは喜ぶはずでしたが、戦いによって勝ち得たものではなく、アラブ人との交渉の結果であったことと、フェデリーコ2世は破門の身で行ったことが災いして、その成果はあまり評価されませんでした。

また、ローマ教皇にとって、自分が破門した人物による聖地奪回を評価することは、ローマ教皇としての権威を低くしてしまうことにも繋がったので、認めるわけにもいかなかったのです。

その後、フェデリーコ2世はイェルサレム王としてしばらく中東に滞在しますが、ローマ教皇がシチリア王国を攻撃するために動き始めたとの情報に接して急遽、イタリアに帰らなけれなりませんでした。